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北アメリカ中央には、大平原が広がっている。これは南のサスカチュワン川からリオ・グランテ川、東のミシシッピー川から西のロッキー山脈にまで渡る広大な領域である。大平原の東に広がる草原は丈の高い草の茂った低地で、肥沃な土壌を持ち、野生動物で溢れていた。この果てしない空間には、かつては数百万頭もの野牛が動き回っていた。 18世紀初期、遊牧民であるスー族がここに定住した。スー族はいったん腰を落ち着けると、分裂を始めた。ダコタに定住した東スー族は一般にサンティー族として知られるシセトン族、ワペトン族、ワペクテ族、ムデワカントン族の4つの部族に分かれた。ナコタ族として知られるスー族の中心的な一派はさらに東へと移動した。 アシニボイン族は彼らから分裂して、北部モンタナに移動した。
ラコタ族またはテトン族は西の最奥部に行き、ブラック・ヒルズにまで達した。馬が部族の生活に導入されると、再定住のプロセスはより迅速に進んだ。
草原では、アメリカ原住民の生活は野牛に非常に依存していた。野牛の肉は彼らの滋養となり、野牛の皮は衣服や家の建造に使われた。男性は主に狩猟に従事し、女性は家庭を切り盛りした。裕福な男性は複数の妻を持つことができた。比較的大きな家族がいくつか冬に集まって遊牧民集団を形成し、夏の狩猟期に解散した。時には、1つの部族全体が集まることもあった。
1人の首長または何人かの首長で構成される会議が、軍事的指導者の助言を受けながら、部族のトップに立っていた。アメリカ原住民によって建てられた最もよく見られた住居はティーピーだった。これは野牛の皮で出来たテントである。初期のティーピーは非常に小型で、犬の背中に乗せて運搬された。馬の利用が普及するにつれて、ティーピーは大型化して行った。


大平原に到着した最初のヨーロッパ人はカベザ・デ・バカが率いる遠征隊のスペイン人だった。スペイン人に続いて、イギリス人とフランス人が入って来た。毛皮を購入したヨーロッパ人は原住民族と交流を持つようになった。毛皮の交換として、彼らは武器、釜、鞍、衣服、鏡、玉など、数々の品物を原住民にもたらした。
したがって、ヨーロッパ人の交易者は現在我々が理解しているような、アメリカ草原での原住民の暮らしの形成に大いに貢献した。馬、斧、火器はアメリカ原住民の生活に深く根付いて行った。基本的に、大草原におけるヨーロッパ人との衝突とこれらの領土のヨーロッパ人による征服は19世紀に行われた。それ以前は、ヨーロッパからの入植者は原住民族の暮らしに定期的にしか侵入して来なかったのだ。


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